当山歴史紹介 修禅寺縁起

由緒は古く、遠く古墳時代にまでさかのぼり、現本堂右の高さ10数メートルのそびえたった巨岩(陽)とその下段の長さ5メートルの洞穴を持つ重なり合った岩石(陰)は、共に古代自然崇拝の遺跡です。

この巨岩(陽)=御霊石は、寺伝に観音岩と称され、往昔、沙褐羅(釈迦面しゃかつら)龍王が、狗留孫仏に請い建てるところの塔婆の頭で、観世音菩薩の化身であるといわれています。

御霊石 観音岩

狗留孫山修禅寺(下関市豊田町杢路子)の観音岩について

本殿右に露出する観音岩は非アルカリの苦鉄質マグマが水中で冷えて固まった安山岩であり、およそ1億3200万年前~1億万年前の白亜紀前期後半に形成されたと考えられます。

当時、日本海はまだ無く、将来日本列島になる地域はアジア大陸の縁の部分に位置していました。

この時期に湖や池・河口域に堆積した土砂や火山岩、火山灰などは現在関門層群と呼ばれており、中国地方西部~九州北部にかけて広がっている他、特徴のよく似た地層が朝鮮半島南部でも確認されています。

この岩石は関門層群のうち下関亜層群上部層と呼ばれる地質帯に属するものであり、当時の火山活動や日本の様子を知る重要な手がかりの一つになっています。

【参考文献】
西村ほか(1995)『新編山口県地質図』山口地学会
平朝彦(1990)『日本列島の誕生』岩波書店(岩波新書)
村上・西村(1984)『山口県地学のガイド』コロナ社
20万分の1日本シームレス地質図(独立行政法人産業技術総合研究所)
奈良時代

天平13年(西暦741年)には東大寺建立の四聖の一人である「行基菩薩」が、当山で修行したといわれ、奥の院(聖観音堂)には行基菩薩の御作と伝えられる「聖観世音菩薩」が安置されています。

天平勝宝6年(西暦754年)東大寺の寺基を確立した東大寺二世、実忠(じっちゅう)和尚が諸国遍歴の折、当山を尋ねられ御霊石(本堂向って右の巨石)より大悲観音の尊容を感得され、以来この御霊石を「観音岩」と称するようになりました。

平安時代 初期

平安時代の初め、大同元年(西暦806年)中国「唐」より帰朝された真言宗 宗祖「弘法大師」空海は九州は筑前箱崎沖の船中より、はるかに当山の霊光を拝し、翌年大同2年(西暦807年)霊光を目指して登山されました。

そして「観音岩」から発する霊光の中から、大悲の「十一面観世音菩薩」の尊容を実忠和尚と同様に感得され、当山の本尊として彫刻、奉安されました。

大師のお言葉~「加持について」

加持とは、如来の大悲と衆生の信心とを表す。仏日の影衆生の心水に現ずるを「加」といい、行者の心水よく仏日を感ずるを「持」と名づく。

平安時代 後期

仁安3年(西暦1168年)千光国師栄西禅師(四宗兼学の高僧・臨済宗開祖)は、一度目の入宋から帰朝して当山に登られました。

その折先師と同じく「観音岩」より観音の尊容を感得され、「汝、早ク堂宇ヲ建立シ、有縁の衆生ヲ導く可シ」という霊告によって留錫され、弘法大師以来の当山の再興に大いに努められ、二度目の入宋から帰朝の建久2年(西暦1191年)には境内を整備され、堂宇を建立され「狗留孫山国護院観世音寺」と命名されました。

また、禅師は当山を本拠のひとつにされて、筑前、筑紫方面の布教にも尽力されました。加えて、当山に伊勢大神宮(天照皇大神)を勧請鎮座されて、神明のご加護をも仰がれています。故に当山では、栄西禅師を中興の祖と仰いでいます。

栄西禅師のご功績により、当山は観世音菩薩の霊場として、広く天下に知られました。

鎌倉時代

文保元年(西暦1317年)時の住職「乗行上人」は、当山参詣の難を考慮して、長府(下関市)に祈願所(別院)「霊峯山普門院修禅寺」を草創しました。

三年後の元応2年(西暦1320年)時には、「後醍醐天皇」の勅定で寺堂が建立され、長門真言宗独頭の寺格で勅願所となりました。

南北朝時代

建武年間(西暦1333~36年)時の住職 乗行上人は後醍醐天皇のご病気を知り、奥の院のお滝で水垢離(みずごり)をとってご快癒を一心に祈願したところ、ご病気はたちどころに平癒しました。帝は霊験を報謝され、延元2年(西暦1337年)勅願門を建立され、本堂も再建されました。

安土桃山時代から江戸時代

藩主「毛利輝元」公は当山、観音の篤信者で天正17年(西暦1589年)勅願門(仁王門)と本堂の大改修、本堂後ろの参篭所(通夜堂)を建立されるなど大いに興隆に寄与されました。

以来、毛利家、毛利藩の歴代祈願所として寺門大いに栄えました。現存する「山号額」は藩主 毛利元義公御自筆の奉納額です。

明治以降

長府祈願所(別院)は、明治維新により寺領三千余貫を総て失い、明治3年(西暦1870年)8月28日廃絶、当山に統合され、寺名を「狗留孫山国護院修禅寺」と改称しました。本堂は明治24年(西暦1891年)の大改修後、数次に亘って補修しています。

奥の院のご本尊聖観世音菩薩は、明治の末盗難に遭われますが、霊験によって昭和6年(西暦1931年)無事お帰りになりました。

また、柴燈護摩道場の整備や前回のご本尊 ご開扉法会の記念事業として銅版屋根の葺き替え初めとした本堂の修復、内部の荘厳、石段等参道の整備、改修により手すり等が取り付けられました。最近では奥の院(聖観音堂)の新築再建と、狗留孫山八十八箇所霊場のご本尊92体(仏師制作による木造)の制作奉安事業、および寺宝の修復を行ってきております。